すぐ泣けるがいい演技か?間違った演技の求められ方と応え方

すぐ泣けるがいい演技か?間違った演技の求められ方と応え方

こんにちは、演技トレーナーの山縣です。
演技のことは言葉だけで伝えることの難しさは重々理解しているところですが、少しでも演技初心者の方や、久しぶりに俳優業を再開する方などに役立ててもらえたらと考えています。

私のモットーとしては、ブレることはありません。
「日本の俳優のレベルを底上げする」
「演技ツールを一般の方に解放し人生に生かしてもらう」

さて、今回は泣く演技についてです。

生徒さん

なかなか泣けません、泣ける演技をするにはどうしたらいいですか?

生徒さん

演技で泣くコツを教えてください!

世間一般的には、俳優ってすぐ泣ける演技ができることが凄いって思っていたりします。
また、嘘を上手くつくことが演技だと思って誤解していると思います。

しかし、メソッド演技、メソッドアクティングを中心に広がった演技が求めているのは、
演技をしないこと、そこに向かうためのアプローチなのです。
つまり、演技をしないことが、究極の演技であり、世界中のアクターや監督が求めていることなのです。
そして、今も追求され続けているのです。

すぐ泣けるを売りにした子役の演技教室やワークショップも数多く存在していますが、そこに自然な演技とは違ったテクニックとしての器用さを身につけさせているようです。
感情は作ることはできません。
準備と行動の先に「自然に出ちゃう」ものなのです。

自然に出ちゃうものにするために、感じやすい心体を作って役を生きることが必要なのです。

すぐ泣ける演技は、泣くために泣いている

結果を欲しがった演出方法をリザルト演出と言いますが、求められた俳優はその結果をすぐに見せようと頑張ってしまいます。
それでついつい何かしら技や技術で対応しようとしています。
笑ってくださいと言われたら、ただ笑おうとするように・・・。

泣く(結果)ために泣こうとする、ことはそもそも形の演技になりやすい方法。
リアルな演技、自然な演技を求められているのであれば、結果のためではなく役がシーンを生きた結果起こり得る事象にしたいところですよね。

まず、大前提として泣くことを目的にしないことが大切です。
役が目的に向かっていく途中で体験されたことの中にたまたま涙があるという認識。
涙を目的にしてしまうと、役の目的ではなく、それは俳優や監督の目的になってしまって、役のにとってみれば意味不明です。

準備としては、そのシーンで、役がどこに(目的)向かおうとしているのか、そしてどうしてその障害があるのかを認識した中で、生きれるようにしておく必要があります。

この辺は、脚本分析の項で伝えたいと思いますが、その行動の中で涙が出てしまったという状態にしていく必要があるということです。

いつから「すぐ泣ける俳優って凄い」になったのか

子どもと女優さんに求められているニュアンスですが、こんなバカげた価値観を俳優に求め出したのは、いつ頃からでしょうか?

特に子どもの俳優として求められる技術に、この「すぐ泣ける」が重要視されがちです。
また、民放で放送される番組などで女優オーディションなどで、求められることだったりしますよね。

すぐ泣ける=凄い演技 ではありません。
すぐ泣ける=そのボタンって危険じゃない? が私の見解です。

大人であれば技術的な方法論として、即席麺を作るように使用する方法になっています。
子役の場合は「お母さん〜行かないで〜」や「お母さんが死んじゃった」などとシーンと関係のない想像で準備をして、よーいスタートで泣いたりします。

私は懸念しています。

俳優は想像と現実を錯覚しながら、あるいは意図的錯覚させながら、物語の体験に基づいた感覚で台詞を出していったりします。
特に子どもはその区別が曖昧です。

トラウマみたいに記憶として残ってしまわないか私は心配しております。
自らトラウマを植え付けてしまう恐れはないか、私は心配しているのです。
そんな演技で称賛された子役たちの稽古風景など見ると、どういうこわけかこのような練習や本番がまかり通ってしまっているようで、嫌な気分になることを私はここで告白しておきます。

理想は、シーンの中に生きて自然な感情から解放していくこと

俳優は、どのような世界でもそれを事実(本当に起きたこと)として受け入れながら、役の目的に向かって行動する中で出会う数々の障害(恋敵、金銭問題、人間関係の問題、怪我など)で右往左往して心を動かしているのです。

まず、その脚本・物語の世界を信じる力が必須です。

そして、心が動きやすい状態でいることが必須になります。

心が柔らかい状態とでも言えばいいでしょうか、相手の言葉や行動や態度がすーっと胸に刺さってきやすい状態です。

言い方を変えると、感じやすい状態、です。

つまり、世界を信じ、役を生きて体験しながら、必要な感情が自然に流れていくようにしていきます。

役を生きた時に、シーンの出来事は「自分ごと」になり、その結果として、涙が出てくるのです。役とつながり「自分ごと」になった時、初めて自然な感情へ移行していきます。

その状態を作るために、また世界を信じて感受性を開くために、リラクゼーショントレーニングフィーリングリベレーション(感情解放)プライヴェートモーメント(公開の孤独)センソリー(五感の記憶)といったトレーニングを積みかせているのです。

スタートと同時に泣く演技が求められた時

物理的に目から涙が出てくるショットが欲しい。
そんなリクエストが多いのも問題ですが、技・技術で対処しようとして、「泣ける演技術」のようなものが重宝されているのかもしれません。
特に時間のない撮影現場では、すぐきてすぐ対応して帰ってくれる俳優が重宝される現状があるからかもしれません。

「泣ける技術」で作られた涙の表情のアップは、実は何を思ってその人が泣いているのかが、透けて見えてしまうのです。その世界にいるかいないか、といった具合です。

音楽や効果音で相乗効果アップされてしまうと透けて見える部分が霧散してしまうこともありますが、逆に音楽や効果音がないと成り立たないと分かっているからそうなっているのかも知れません。

シーンの途中で泣く演技が求められた時

役を生きる俳優にとっては、こちらの方が「泣いて欲しい」という監督のリクエストに応えやすいかと思います。

役が目的と障害を体現していれば、十分心から反応が可能だからです。

しかし、もしシーンや物語と全く別次元のことを想像して泣いている俳優は、時に相手役の人にそれが透けて見え、意図しない対話になる可能性もあります。

心を開いた演技をしている人にとっては、嘘の演技や別次元から感情を動かしている人からも、そのままをその人を受け取ってしまうからです。
変な言い方をすれば「どうして嘘泣きをしているんだ」「この人は泣こうとしている」と感じられてしまう、みたないなことです。

泣く演技。感情は、欲しがった瞬間に逃げていく

泣けない、泣く演技ができない、という人に言っておきたいのですが、
泣こう、泣こう、とすればするほど涙は逃げていきます。
それは頭で考えてしまっているからです。

思考は理性を働かせるために動きますので、その間は感情を止めてしまいます。
また泣こうとして泣けない状態になればさらに焦り、焦った自分にさらに焦ってしまい、涙はどんどん逃げていく結果になります。

ここに名言を残しておきます。

ありとさん

感情は、欲しがった瞬間に逃げていく

某映画の裏話

有名な小説を元に映画化された、漫才師と囚人の兄弟関係のお話。兄が収容されている刑務所内で弟が漫才をしにきたラストシーンの撮影でのこと。
ステージで弟が漫才を相方と繰り広げながら、それを観客席側で囚人である兄が見て泣くというシーンがあったのです。
兄が弟の漫才を見て泣く、想像に難くないと思います。
その囚人役の俳優さんは涙を求められていたそうです。
リハーサルでもの凄く心が動き、涙が溢れ出てきて名演技をされたそうです。まわりにいた人も「凄い」と感じ、そのシーンに参加していた私の友人も「さすが!」と驚いたくらいです。

しかし、いざ本番となった時に、涙が全然出てこなかったそうです。
何テイクも何テイクも重ねていくうちに、さらにプレッシャーがのし掛かり、恐らく役を生きるどころではなくなったのではないでしょうか、ますます涙が出る気配がなし。

多くの人をエキストラ含め拘束した時間、これ以上ここに時間を使うわけにはいきません。きっと心の中でも「どうして涙出ないんだ!」と焦っていくこともあったかも知れません。結果的に、それは逆効果となっていき、涙は出てきませんでした。

そして、最終的に、その俳優さんは、目薬を使用して無事撮影が終わったといいます。
つまりリハーサルが最高の演技だったのです。
※私が20代の頃に主催した劇団の劇団員が撮影に参加して教えてくれたお話に基づく。

演技トレーナーの本音

本音を言うと、監督や演出家が結果を求める演出方法から、相手を導く演出方法に転化していければ、もっともっとクリエイティブな撮影現場が生まれると私は信じています。

「監督の私が要求したら、それをやるのが俳優の仕事だ」くらいに思っている人もいるかもしれません。本来はよほどの信頼関係がないと成り立たない状況ですよね。

また、私は演出家として言わせてもらうと、ト書きに泣くと書いてあったとしても、泣いていようが泣いてなかろうが問題ありません。なぜなら、役を体現している俳優を信頼した場合、シーンの中で動いてみて結果、泣くかどうかなんてやってみないと分からないからです。

心が泣いていても、涙が流れていないこともあるでしょう。
涙が出ていなくても、目的に向かっていれば違う発見を監督や視聴者が見出す可能性だってあるでしょう。

重要なのは役がシーンの中で目的に向かって生きたとき、その状況で何が出てくるか!なのですから。素晴らしい化学反応が起こりやすいようお互い準備できるようにしていきます。

まとめ

メソッドアクティング(また自然な演技を追求したもの)を軸にトレーニングを積んだ俳優は、心が反応しやすい、感じやすい状態に自ら身を置き役を生きます。
その演技は、とても生で素直でダイレクトで時に想像を超える感情を生み出します。

しかし、反対に技術的なものを駆使した演技は全てをコントロールしたもので自然に見せる努力をしています。どこかで俳優や演技のことを技術家のように思っていたら、きっとリザルト演出で監督や演出家は求めてしまうもの。
確かにそれはそれで素晴らしい技巧があります。また技術的に演技の上手い人は意外とたくさんいます。そんな彼らが、すぐ泣けるを一生懸命応えてきた歴史があるのだとも思います。

すぐ泣ける、という技に頼った演技は見せる演技となり、自然な感情が伴った演技と離れてしまいます。せめてシーンの直前を体験する時間を数分用意してやるだけで良いのです。

また、子役という商品パッケージの必須事項のように結びつけられた「すぐ泣ける演技術」は、人間理解から遠く離れたある種のパワハラに近い内容です。
有名子役指導者などの怒鳴り声に対する子どもの反応などを見ると、心を痛める演技トレーナーの私がいます。
その前に父親としても心を痛めます。

想像力の逞しい子どもたち、物語の世界を信じやすい状態の子どもたちに必要なのは、きっと「さぁ物語に入っておいで」「出ておいで」と言える中で、自分ごととして生きてもらう練習かもしれません。

また、泣く演技を求める監督や演出もまた、求め方や導き方をぜひ演技トレーニングや心理学要素などの手法を使用して欲しいところです。※私も共感しますが、イナヴァ・チャバックのインタビューをご参考ください。

どうしても「すぐ泣いて欲しい」という場合は、直前まで感じやすい状態の中に身を置いて、何か自分の想像を刺激するものを用意しておけば(シーンや物語に対して、自分の想像を刺激するもの)、対応していけます。

PS:頭と心を柔らかくしていくために・・・
思考や理性を使って何かしようとする人は物語(想像の世界)を信じることが難しいと言えるでしょう。考えていてはその世界に生きることはそもそも難しいのですから。

大人の人は多かれ少なかれ、そのような方が多いと思います。
なので、演技トレーニングでそれらをほぐしていくことで、物語に入れるようにしていくのです。そのためにリラクゼーションやその他のトレーニングが必要なのです。スタニスラフスキーがそれらを解決しようと四苦八苦し生み出されたのがメソッドアクティングなのです。
ぜひ、お試しください。

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